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海道を走る


●初の有給休暇、一日目。

サラリーマン時代の1971年、22歳の時
ゴールデンウィークに絡ませて、初めての有給休暇を利用し、
以前から計画していた、十日間の北海道ドライブ一人旅を実行することにした。

ホンダのバイクばかりを乗り継ぎながら、ローンであるが、やっとの思いで車を手に入れた。
車は空冷エンジンで軽四輪のオレンジ色ホンダZ(当時軽のエンジンは360cc)。

もちろんオートマ車ではなく。アルファロメオのシフトレバーによく似た、
L字型のグニャッとしたダッシュチェンジ仕様。

(一日目)朝出発し、四国からフェリーで神戸に渡り、
そこから京都市街、続いて京都郊外を走り抜け、
その日の夕方、初日の目的地である、日本海沿岸の港町「敦賀」に到着。
どこかで、時間を潰したのだが、記憶が定かではない。敦賀港付近で一泊。


●二日目、フェリー船内、その一。

(二日目)
午後三時に敦賀港発の新日本海フェリー「はまなす」に乗船。
このフェリー、結構デカかった。小樽港まで27時間の航行(フェリー内で一泊)。
往復チケットを購入していたが、復路は、歌謡曲「岸壁の母」で有名な、
舞鶴港に着く別の船便の予定になっていた。
もちろん、敦賀港も舞鶴港も、それまで一度も訪れたことはなかった。

船内は広く、ホールやレストランも完備されていて、
車両を運ぶ、フェリーのイメージがなく、
今まで、瀬戸内海を航行する小さなフェリーしか知らなかったので
大きさだけなら豪華客船のように感じていた。

乗り込んだ二等船室も、予定客30人の大部屋仕様で、
老若男女で満席状態にもかかわらず、比較的ゆったりとしていた。

しかし、さすがに二等船室で、言い訳程度に線を引いただけの間仕切りで、
プライバシーは全く無かった。ちょっとした修学旅行状態が近くの席同士で出来上がり、
寝るときには、雑魚寝状態が予測できた。

●二日目、フェリー船内、その二。

当時創刊された、女性用ファッション雑誌が特集で煽った、折からの旅ブームで、
自分も含めて、皆が北海道へ行きたがっているのがよく分かった。
日本も高度成長時代ではあったが、
まだまだ、連休を利用して海外旅行に何十万人もの人が行ける時代ではなかった。

「知床旅情」や「岬めぐり」などの流行歌の影響もあって、
ギターなどを持ち込んでいた学生風の若者も一人や二人ではなく、
船内でのBGMも吉田拓郎の「旅の宿」が何回も流れていた。

食堂で夕食を済ませ、船内をブラブラしてみたが、
歌や小説のような、面白い出来事が起きる気配など全く無かった。

疲れてきたので、船室に戻り、体を休めようとして横になった。
大部屋なので、他の乗客の話し声が気にはなったが、
色々思いをめぐらしているうちに意識が消えた。

●三日目。

意外と早く目が覚め、甲板に出てみた。この時、初めて日本海を見た。
最初は、感激していたが、すぐに、どうってことのない普通の海だと気づく。
ボーッとしているのも悪くはなかったが、
何時間も同じ海の景色ばかりでは、さすがに飽きる。

想像していた船旅とは少し違うなと思いながら船室に下りて、再びゴロリと横になった。
やがて夕方になり、小樽港に着いた。日の沈むのが思っていたより早く感じたので、
「小樽の人」を探す間もなく、すぐに小樽から札幌へと走った。
何時間か費やし、札幌に到着。イメージより小さい時計台に別の驚き。札幌で一泊。

●四日目

朝一番で「余市」へ立ち寄り、ウィスキー工場を見学。
なぜか、もう一度、札幌まで戻り、昼間の札幌を観光。

次に「留萌・るもい」を経由して北上。一気に「稚内」まで走った。
経過した時間は記録がないので不明であるが、
日本海の見える海岸線を長時間に渡って走り、夕暮れ時に稚内の駅前に無事到着。

ここでも旅行客が大勢いたことが印象に残っている。
稚内駅前で銭湯に入る。(稚内駅前の広場に停車したZで車中泊)。

●五日目、その一。

朝起きて、稚内駅構内の洗面所で顔を洗うと、
同じように歯を磨いたり、洗顔している人がいた。
当時、ヒッピー風の旅人は、どこの観光地でも珍しくはなかった。

自分の容姿も、その一人に見えていたに違いない。
稚内から納沙布岬へ行き、
セルフタイマーで、Zのボンネットに腰を掛けている自分の姿を撮影。

旅行代理店のパンフレットには、「美しいお姉さん」が載っていたが、
流木風に似せて作ってある「ノシャップ岬」の看板と海以外は、何にも無し。

納沙布岬から「日本最北端の地」まで走り、
ここでも、三角錐の形をした記念碑の前で一人座ってジー、カシャ撮影。

●五日目、その二。ニコンF2フォトミックについて。

土産代わりに、知床の大自然や、雄大な大雪山などを、撮影しようと、
カメラは、一眼レフのニコンF2フォトミックという、
当時では高級品の部類に入る、機種を用意していた。

「大切に取り扱えば、一生物になるから」と、
会社に出入りしていたカメラ店の店主に勧められ、
大奮発して、これもローンで購入。

しかし、このカメラ、ファインダーの上部が異様に大きいのが難点で、
首からカメラを長時間吊り下げていると、
ストラップが首の後ろ部分に食い込み、痛い上に、とにかく重い。

素人には、扱いづらく、実用的ではなかった。
現在のような、軽量デジタルカメラやカメラ付携帯電話がこの当時にあれば、
どれだけ便利で楽しめたことか。

●五日目、その三。

「日本最北端の地」を出発し、
郵便切手の図柄にもなっている「原生花園」と区域と思われる、
線路沿いの土手をウインドウ越しに眺めながら
「網走」まで延々続く北北海道の海岸線を走った。
ここでも、どこが「原生花園」かと思わせるほど、花は全く咲いていなかった。

現在と違って、全てが舗装道路ではなく、工事中の砂利道などが所々にあり、
どこかの漁港からトラックで運搬途中に、
荷台から落下したと思われる小魚が数多く落ちていた。

本当に国道なのかと思うほどの交通量の少なさで、
信号機も少なく、追い越して行く車も無く、たまに対向車が通過するぐらいで、
ひたすら道が続くだけの、自分専用道路状態であった。

あまりにも単調な運転が長時間続くために、
アクセルの踏みっぱなしから、ダルくなったきた右足を、
なんと左足に踏み代えて、アクセルを踏み続けたという、
非常に危険で、考えられない運転方法を試みたことを憶えている。

●五日目、その四。

カーナビなど無く、道路地図や観光パンフレットを見ながらの、
結構行き当たりばったりの強行日程も、
適当に走ったり、食ったりで、それなりに楽しみながら順調に思えた。

網走では、大きな木彫りのアイヌ人形が店頭に飾ってある土産物屋に立ち寄り、
アイヌの人達の民族衣装と同じ柄のキーホルダーを何個か買い求めた。

陽が傾きはじめていたので、網走で一泊することも考えたのだが、
当初の予定では、その日の内に知床半島にある、
国民宿舎に宿泊することに決めていたので、そのまま、アクセルを踏み続けた。

ところが知床の「羅臼(ラウス)村」を通過し、しばらく山道を走った時、
それまでの長時間運転と未舗装のひどい悪路とカーブの連続からか、
ホンダZが音を上げる前に、情けないことに「運転手自身」が、
車酔いのような症状で気分が悪くなり、急激な体調不良に陥った。

●五日目、その五。

買い食いばかりが続いたので、食当たりの感も拭えなかったが
原因云々より、とにかく下腹に力が入らず、吐きそうになって、
旅行気分は一気に吹き飛んでいった。

あまりの体調の悪さに気力も萎えてしまい、
しかたなく山道のコーナーを避け、比較的見通しの良い場所に一時停車した。

「せっかく、ここまで来たのに」と思ったが
地図で国民宿舎までの距離を確認すると、まだ山道が何キロも残っている。
発熱したのか体が熱っぽくなり、だるい。
ボーとした頭で思案の末、山越えを断念した。

風邪にでもやられたのか?
このまま悪化して、旅先で入院ではシャレにならないなどと大袈裟に思うようになり、
明日からの全ての計画を取り止め、急遽予定を変更し帰路に着くことを即決した。
(弱気になると、ネガティブになり、ホームシックにかかるのは本当です。身をもって体験)

●五日目、その六。

山を下る時には、周りは、すっかり暗くなり、
不慣れな山道で明かりも無く、
ヘッドライトだけがたよりの半病人ドライバーになっていた。

稚内から網走まで走った、北北海道の海岸線以上に、
対向車はもちろんのこと、追い越して行く車も全くなく、
上りの時には気にもならなかったが、
ところどころにある「熊に注意」の看板だけが、やけに目に入ってきた。

と、その時、連続カーブの途中で突然道が消えた。
不覚にも左カーブでブレーキを踏みながらハンドル操作をした為に車が膨らみすぎて、
Zは、ゆっくりと一回転しながら右崖下へ落下。
誰も聞く人のいない「ウァー」の大声だけが響き、「死んだ」と思った。

●五日目、その七。

フロントガラスはグシャッとつぶれ、赤茶色ものがべっとり。
それを見たとたん、てっきり頭が裂けて血が流れていると思った。

しかし、激しい痛みなどを感じなかったので、
気持ちを落ちつかせ、もう一度前を見直した。
よく見ると、オイル状のものが流れ出していた。

とっさに、「ヤバイ、車が燃える」と思い、
狭い車内で、逆さの体勢を何とか立て直し、
キーの差込み部分を探して、エンジン・スイッチを切り、
キーを引き抜いて急いで車の外に出て、その場を離れた。
意外と、すんなりドアは開いた。

体調不良のため、
車のスピードをあまり出していなかったのが不幸中の幸いなのか、
転落した場所は崖下ではなく、
山道から1m程下の「だんだん畑」らしき場所の一番上の部分に落下していた。

もう少し、転がっていれば、 その向こうは断崖絶壁。
間違いなく知床の海へ転落死。九死に一生を得るとはまさしくこのことである。

●五日目、その八。

この時代、道交法でシートベルト装着は、まだ義務づけられておらず、
エアバッグが装備されている車なども皆無状態であった。
にも関わらず、なぜか身体の部分で痛みを感じる箇所はなかった。

ホンダZは、亀が腹を見せてひっくり返ったような姿で、
タイヤだけがゆっくりと空転していた。
車が燃え上がるようなことにはならなかった。

今、思うと、普通の運動神経の人間が、
タイヤの回転が止まり切らないような、わずかな時間内に、状況判断を下し、
しかも逆さまになっている車のエンジンを切り、キーを抜き外に逃げ出すなど、
機敏に行動を起こしていたのだから、「火事場のなんとか力」というように、
人の緊急事態への適応能力は想像を超えるものがあるなと自分ながら驚いている。

●五日目、その九。

あたりを見回しても真っ暗な山道。
当時の流行歌の一節のように、遠くに羅臼村の明かりが小さく見えるだけ。
本来なら美しい夜景を味わう観光客気分なのだろうが、それは、すぐに絶望感に変わった。

携帯電話など当然なく、早く何かの方法で、誰かに連絡をつけて、助けを呼ばなくてはと思い、
「これはヤバい」「こんなところで大変な事になった」「どうすればいいんだ」と本当にあせった。

とにもかくにも這ってでも、何時間かかろうが、なんとか山を下りなければならないと思い
どこかで車や人に出くわすことに期待しよう。と気を取り直し、
車はそのままにして、山道を歩きはじめた。

それでも、人の欲というものは、卑しく、
こんな緊急事態にも関わらず、気が付くと、手には、いつのまにか、
壊れているかも知れない、「ニコン」を、しっかりと握っていた。

●五日目、その十。

不思議なモノで、この時には、事故によるパニック状態が、
ショック療法のような効果を発揮したのか、あの体調不良は何だったのかとばかりに、
なぜか事故以前より元気になっていた。たぶん、ハイになっていたのだろう。

羅臼の町までの距離など知る由もなかったが、
知らぬ間に競歩ランナーのような早さで歩いていた。

ところが、山道のカーブを三つか四つ、曲がった時、
道から少しはずれた場所に、いきなり複数の明かりが見えた。

思えば怖い話だが、何の確認もせず、何の躊躇もせずに、
あまりにも早い「天の助け」とばかりに、ワラをも掴む気持ちで明かりに近づいた。
この際、助けを乞うのは誰でもよかった。

●五日目、その十一。

アルコール特有の匂いのする中、大声が響いて、大勢が騒いでいた。
急いで、その内の一人に近づいて声をかけ、いきさつを手短に伝えた。
相手も、一瞬驚いてはいたが、やがて、お互いの自己紹介で身分が判明。

何名いるのか正確には分らなかったが、
陸上自衛隊・美幌六連隊が訓練とレジャーを兼ねて、
野営をしているとの説明を受けた。

またまた、何という幸運か。と同時に、
転落現場から、こんなに近くに、大勢の自衛隊員が、
キャンプを張っていることなど、全く確認できていなかったことを不思議に感じた。

いくら薄暗い山道でも、人数からして、見つけられたはずなのだが。
上りの時に、まったく気配は感じられなかった。
余程、夢中で走っていたに違いない。

●五日目、その十二。映画「悪魔の追跡」

余談になるが、相当昔に、確か、ピーターフォンダ主演のハリウッド映画で、
「悪魔の追跡」という映画を観た事がある。

内容は、キャンピングカーで男女四人が旅行に出かけ、道に迷い、明かりの元に辿り着くと、
それは、宗教集団のミサの会場であり、その現場を見たために、
それが原因で何日間も付きまとわれ、
主人公を含む四人が次々と襲われるというストリーであった。

「助かった」と思った瞬間、体の力が抜け、思わず涙が出そうになった。
事情を説明すると、すぐに「解った、とりあえず、みんなで車を引き上げよう」と、
リーダーらしき人物の指示で、ほとんどの隊員が、車が落ちた場所まで駆けつけてくれた。

手際よく発電機とライトを設置して現場を照らし、ひっくり返っていた車をもとに戻し、
大勢の隊員がホンダZをぐるっと囲み、「祭り神輿」のように担いで、山道まで持ち上げた。

●五日目、その十三。

いくら軽四輪車といえども、重量500kg以上はある自動車が、
大袈裟な機械など使わずに、人の力だけで軽々と持ち上がったのには驚いた。

Zは山道に鎮座していた。フロントガラスが潰れ落ち、屋根の一部もへこんでいた。
気にはなったが、車体の細かい部分のダメージなどを確認する余裕はなかった。

リーダー格の隊員が、「兄ちゃん、早くエンジン掛けてみな」と言ったので、
思わず「ハイ」と返事をして車に乗り込み、慌ててジーンズのポケットからキーを取り出し、
「頼む掛かってくれ」と願い、キーをひねった。

すると以外にもZは、「ブォーン」と何事もなかったように、エンジン音を響かせて蘇った。
「オオ、掛かった、掛かった」救出に関わった、ほぼ全員の自衛隊員が、
自分の事のように喜んでくれた。拍手も聞こえた。

●五日目、その十四。

すぐに、リーダー格の隊員が、
「早く、このまま羅臼のガソリンスタンドまで行って修理してもらえ」
と言ったのに続いて、「エンストさせないように慎重にな」
「オイルが漏れとるからオーバーヒートさせたらおシャカやぞ」
「スピード出すなよ」「ゆっくりな」「気をつけてな」などと、
他にも大勢の声が聞こえた。

私は何度も何度も頭を下げて、
「ありがとうございます」「助かりました」「お世話になりました」
この三つの言葉しか知らないのかと思うほど、
繰り返し言っていたことだけは、今でもハッキリと覚えている。

●五日目、その十五。

ホンダZは再び山を下りはじめた。早く走りたい気持ちを抑えて。
後続車があれば間違いなく、パッシングの嵐をうけるような遅い速度で。
登りの時に比べて、いっそう細く長く感じられる山道をひたすら下った。

午後11時頃、やっとの思いで羅臼のガソリンスタンドに到着した。
ところが、看板の電気は点いてはいるものの、
店舗にはカギが掛かり人の気配がせず、無人状態になっていた。

あたりをよく見ると、民家の灯りもついておらず、町というより、村全体はすでに眠っていた。
また、公衆電話で自宅に緊急長距離電話をしようとしても、
ガソリンスタンドなのに電話も見あたらないのである。

●五日目、その十六。

一難去って、また一難とはこのことか。
どこかの家に事情を説明して、助けを乞い、
せめて、電話だけでも借りようかとも思ったが、
「深夜に迷惑だろうし」「不審者と思われても困るし」などと、
緊急の場合なのに、グダグダ思慮して悩んでいる自分の優柔不断さを嘆いた。

それでも、事故発生時とは、心理状態は雲泥の差。
命拾いしたスグというのに、車が走行可能なのが解ると、
勝手なもので、事情聴取で足止めされたり、
事故現場に立ち会わされたりすると、色々面倒なことになるので、
けが人もいないし、壊れたモノは自分の車だけの自損事故なので、
「まあいいか」と警察への連絡もためらった。

●五日目、その十七。

もう少し走れば大きな町まで行けるのでは、とも考えたが
道路地図だけがたよりで土地勘などが全く無く、
オイル漏れしているエンジンの耐久性に不安もあり、
せっかくここまで何とか走って来れたのだから、自衛隊員が言っていたように、
このガソリンスタンドで朝まで待って、何とかしようと腹を据えた。

なにぶんにもフロントガラスを破損しているので、いたずらや盗難に遭えば、
これはこれで、また厄介なことになると思うと車から離れる事も出来ず、
しかたなく、ガソリンスタンドの駐車場に停めたZの中で夜明けを待った。

五月半ばで、それほど寒くはなかったが、
疲労しているにもかかわらず、不安と心細さが先に立ち、さすがに熟睡は出来なかった。